私はただ生きたいだけだ

ノイローゼとして10年以上社会に溶け込むべく生きてきたが、そろそろ限界を感じている

「鈴木宗倫」というペンネームについて

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「鈴木宗倫」はペンネームである(「宗倫さん」と呼ばれたい)。

私はこのペンネームをとても気に入っている。絶妙なさじ加減だと思うし、何か語り出したくなる「兆し」を秘めている。

語り出すためにはペンネームが要る

私は自分の「立場」を明確にしないと、語り出せない。

私が最も得意とするのは「テーマの決まった発表の場」や「報告書」といった表現行為である。反対に、テーマの定まらない場では私は黙っている(私は大規模な飲み会が苦手だ)。

私はこのペンネームに、希望と恨みを込めている。

きっとほとんどのことを語らず、同じことばかりを語ることになる。それは端的に私の感じている「閉塞感」や「限界感」、あるいはもっとシンプルに「生きづらい」という嘆きや「生きたい」という叫びだろう。

このペンネームでは、昼食のペペロンチーノをアップロードすることはなく、政治家ゴシップや世界情勢について書くこともない。

私というつかみ所のない存在に、鈴木宗倫という「枠」を与えて、その中で活動していたいと思っている。

鈴木宗倫は、過去に書いた小説のキャラクター名である

鈴木宗倫は、過去に書いた小説のキャラクター名である。

その小説は由緒正しく選外になったため、このキャラクターの名前を覚えている者はきっと世界で私一人だ。

私は「鈴木宗倫」という名前を気に入っている。

とても気に入っているので、ペンネームにした。自分の本名なんか捨てて、鈴木宗倫として生きていたいすら思う(もちろんそんなことは胸の奥に秘めたりブログに書いたりするだけで、現実に移されることはない)。

当時、鈴木宗倫というキャラクターは、女性であった。

私は世の厨二病患者の例に漏れず凝った名前をつけるのが好きだ。名前をつけたら、その名前でGoogle検索をして、一件もヒットしないことをまず確認する。そして、男性とも女性とも取れる名前をつけることはもっと好きだ。そこに儚さがあるからだ。

凝った名前を思いついただけでは世界は少しも良くならない。凝った設定をB5ノートに書き連ねても意味がないのと同じだ。

それでも私はこの名前に、ほんのわずか、ワクワクしている。

何者でもなく、そして世界から完全にはじかれていたい

私は中性的な名前が好きだ。

中性的な名前には、どこかその人物の背景を捨象する儚さがある。

SF漫画・SFアニメ的世界のやたらと古めかしい居酒屋で、文庫本を片手に安酒を飲む男をイメージする。

酒のせいで、彼は読んだ先からその内容を忘れていく。彼はいっそ狂人になってしまいたいと願っている。酒が自我を壊してくれることを望んでいる。しかし彼の小心さや変に常識的な性格が、酒に溺れることすら許さずにいる。

中性的な名前にはそんな儚さがある。

私も同じである。

要するに私はこの世界での生活にひどく疎外感があって、だからこそ自分から生活感を捨て、浮世離れしていたいと願っている。にもかかわらず私は常識人で、生真面目で、小心者で、優しい。だから私はこんなにも世界から疎外され傷つけられても、世界に対して誠実であり続けている。

私は私のインターフェイスについて語りたくない。私が社会でどう振る舞い、どんな服を着て、どんな口調を選択するのか。これらはひた隠しにしておきたいものであるし、人生から無くしてしまいたいものである。

だから私はインターフェイスを意識させない名前を選択した。

私はこの名前に、ほんのわずか、ワクワクしている。

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