私はただ生きたいだけだ

ノイローゼとして10年以上社会に溶け込むべく生きてきたが、そろそろ限界を感じている

「何のために生きているのか」と問う私たちは、「なぜ生きなければならないのか」と嘆きたいのである

f:id:s-munemichi:20170313192538j:plain

わからない

もうほんと生きる理由がわからない

http://anond.hatelabo.jp/20170211181942

という言葉を見た。

私も分からない。

でも、「生きる理由が分からない」という言葉は本心じゃない。

きっと本当は「なぜ生きなければいけないのかが分からない」と言いたいのだ。

私たちはそろそろ、限界を感じている。

世界は私たちを「決心させる」寸でのところまで追い詰めておきながら、強固な力でガッチリと両肩を抑え込み、その場にとどまらせる。だから私たちは、前にも、後ろにも進むことができなくなる。

私は幸いにもかけられたことがないが、「飛ーべ、飛ーべ」という掛け声がある。囃し立てる少年たちと、囃し立てられる一人の少年。彼はついに抵抗を諦めて、決心へと至る。

しかし最後の最後、諦めた彼はあらゆる責任をまぬがれ、これを他者に押し付けることが許される。彼は徹頭徹尾の被害者として飛ぶ。彼は絶対不可侵となる。彼はあらゆる批判から逃れられる。

誤解しないでいただきたいが、彼が羨ましいと言いたいのではない。彼が恵まれていると言いたいのではない。私たちはもっと不幸だと言いたいのではない。

何を言うでもなく、思うでもなく、ただ、くすんだ横目で彼を見るだけだ。

人は私たちに「飛ぶな」と言う。

そして、不幸にもここにいる私たちはみな踏みとどまっている。しかし、踏みとどまった私たちはどうすればいいのだろう。

人は私たちに「前を向け」と言う。

そして、不幸にもここにいる私たちはみな、律儀に前を向いている。しかし、私たちの眼前には、踏みとどまった崖から覗く底なしの闇が見えるだけだ。

社会は、まるで世のなかのすべてのひとが均質なロボットであるように、すべてのひとを均質に扱おうとする。要求の合理性を説く。制度の趣旨を説く。責任の所在を説く。

こうして社会は義務を明確化し尽くして、いつのまにか社会全体の合意を取り付け、正しく強制する。

欠陥品たる私たちは、コンベアの流れに遅れまいと進む。進みながら思う。頭が痛い。なぜ、こんな思いをしなければならないのか。

「飛ーべ、飛ーべ」という例の掛け声。

思えば掛けられている。

ずっと掛けられている。

ただ、あまりにも長い期間かけられたものだから、そして「飛ーべ」とも「飛ぶな」とも言われるものだから、まるで耳鳴りにするように、「これは無意味な雑音なんだ」と自分たちに言い聞かせている。

私たちは耳鳴りに頭を痛ませる。

本当に頭が痛いのは耳鳴りがするからではない。耳鳴りの正体を、耳鳴りが何と言っているかを、知っているからだ。

そして私たちはついに耳鳴りからすら意識をそらし、頭痛を嘆いて言う。

「ああ、頭が痛い。こんなに頭の痛い思いをして、何のために生きているのだろう」。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村