私はただ生きたいだけだ

ノイローゼとして10年以上社会に溶け込むべく生きてきたが、そろそろ限界を感じている

1人の「○○せよ」は、9人の「○○しなくとも良い」に優先する

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現代日本は民主主義である。

そのために、私たち少数派は、自分たちが多数派と同じように扱われないことに憤慨しない。自分たちが多数派と同じく生きることができるようにと補償を要求しない。

少数なのだから仕方ないと受け入れている。

しかし、受け入れぬ者もいる。

頑張らなくてもいいなんて、嘘ですよね。

「頑張れ、もっと頑張れ」と言う者がいる。同時に「頑張らなくてもいい」と言う者もいる。

仮に「頑張れ」と言う者が9人、「頑張らなくてもいい」と言う者が1人いるのであれば、話は早い。私たちは安心して飛べばいい。

しかし現実はそうではない。せいぜい「頑張れ」「頑張らなくてもいい」と言う者が同数であり、「頑張らなくてもいい」と言う者のほうが多いこともある。それどころか、「頑張れ」と言う者が1人、「頑張らなくてもいい」と言う者が9人と言う場面すらある。

こうした「場」に出くわすたびに、私は混乱する。

こうした「場」でも、「頑張れ、もっと頑張れ」が優先される。「頑張らなくてもいい」と言う者も、行動としては頑張る。彼らは何も「頑張ってはいけない」と言っているわけではないのだから、矛盾した行動をとっているわけではない。そして私には10人の頑張る人が見え、そのうちの1人が「頑張れ、もっと頑張れ」と声を張り上げているのが聞こえる。

私は混乱する。

「頑張らなくてもいい」とは、何なのだろう。「頑張らなくてもいい」と言いながら頑張る彼らは何者なのだろう。混乱しながらも懸命に頑張り続け、しかし限界がすぐそこまで迫っている私たちは、どうすればいいのだろう。

「私たちは、頑張らなくていいのだろうか?」

この問いに、きっと半数以上の人が「Yes」と答える。

「私たちは、頑張らなくていいのだろうか?」という問いは、何なのだろう。

この問いへの回答を聞いても、私たちは混乱するだけだ。だから、私たちは、すでに問うことをやめている。やめて、限界に気づかないふりをしながら、頑張り続けている。そして時折「頑張らなくていい」といった言葉を聞くたびに、心がざわつき、期待を抱き、破れ、また灰色の日々に戻っていく。