「逃げていい」という言葉を見るたびに、「逃げる」ことがとても難しいと実感する
「逃げていい」という言葉がある。
例えば、「辛ければ逃げていい」のだし、「逃げずに戦うことが偉いわけではない」のだし、「何度逃げても人生はやり直せる」。
こういった美しい言葉が世には溢れている。攻撃的で排斥的な言葉と同じくらい溢れている。
しかし、私はこれらの美しい言葉に励まされるたびに、どうしようもない「難しさ」を感じる。
私はどうやって逃げればいいのだろうか。私はどこに逃げればいいのだろうか。逃げた先で、なんらのレベルアップもしていない私は、どう生き延びればいいのだろうか。
確かに、逃げることで「いま、ここ」にある苦しみからは解放されるのかもしれない。
しかし、私たちは経験的に知っている。
私たちの苦しみは、ほとんどこの世のいたるところに延長されていて、逃げても逃げても逃げ切ることができない。
私たちは経験的に知っている。
私たちがこの強烈な「生きづらさ」から真の意味で逃げきるためには、「飛んでしまう」か、社会生活そのものを諦めてドロップアウトしてしまうかしかない。そして、その2つの選択肢すら、私たちの健全な理性が退けようとする。
私たちは本気で「逃げ出したい」と感じる一方で、「逃げられない」という無力感を抱えている。考えてみれば、当然のことなのかもしれない。「逃げ出したい」という感情は無力感の産物なのだから。
私は年々、その無力感を強めている。自分の限界を感じている。自分が「本当の限界のライン」に限りなく漸近しているのを感じる。
過去には数度、「限界」を越えたことがある。
私はこれ以上、「限界」を越えたくない。あの日々を繰り返したくない。しかし不思議なことに、このままでは確実に「限界のライン」に到達する道を歩んでいる。
私は自分が、ゆっくりと、自分の首を絞める手に、力を込めるのを感じている。