「頑張らなくていい」とある人は言う。では、頑張らなければ生きていけない私たちは。
ある人は「頑張らなくていい」と言う。
こう言ってくれる人の存在は、救いである。
控えめに言っても、彼ら(彼女らを含む)のおかげで、私たちはギリギリこの世界に踏みとどまっていられる。彼らがいなければ、昨日までのどこかで、向こう側へと飛んでいたはずである。
彼らはきっと、見たことがあり、想像したことがあるのだ。私たちが世間から「頑張れ、もっと頑張れ」と煽られ、それを真摯に聞き入れ、忘れまいとメモを取り、自分の内なる正義よりも「頑張れ、もっと頑張れ」を優先して生きているのを。
だから彼らは言うのだろう。「そんなに頑張らなくていいのだ」と。
頑張らなくては生きていけない。頑張るのをやめることは、生きるのをやめることだ。
この時、私たちは二つの問題に直面する。一つが「『○○せよ』と『○○しなくても良い』と言う二つの意見を満たすために、私たちが取る行動」の問題である。これは、時を改めて書く。そしてもう一つが、「頑張らなくは生きていけない私たちは、『頑張らなくていい』をどう解釈すべきなのか」という問題である。
彼らはきっと、誤解している。
私たちが必要以上に頑張っており、120点を取っているのだと。ほどほどに頑張り、100点、いや、80点を取れればいいのだと。
そうではない。
私たちは必要なだけしか頑張っていない。
私たちは、あれも、これも、それも、諦めている。そして「これくらいはやらなくては」というラインを満たすために、文字どおり「必死で」頑張り続けている。頑張り続けて私たちは80点を取っている。
私たちが生きるためには、死なないだけの食事を取らなければならない。食事は有料である。そして住む家も、水や電気も有料である。これらの代金を支払うためには、働かなければならない(なんなら奨学金の返済もある)。頑張って働かなければならない。
きっとこうした反論は、言いがかりなのだろう。
私たちは了解している。
「頑張らなくていい」と言う彼らの内心を。私たちの認識の歪さを。
だから私は、この反論を口にしない。微笑んで感謝の言葉を述べる。
そして相変わらず、破滅が近づき続ける。