私はただ生きたいだけだ

ノイローゼとして10年以上社会に溶け込むべく生きてきたが、そろそろ限界を感じている

陽気に生きようとする私たち

f:id:s-munemichi:20170314194749j:plain こんなブログを書いていて真実味がないが、私は陽気である。

私は大人数の飲み会が苦手で、グイグイくるタイプやギラギラしたタイプとは距離を取り、基本的に少人数で行動する。

しかし私は別に悲観的ではないし、どちらかというとよく笑うし、(仲間内では)よく喋る。ネガティブなことは冗談として語る(ネガティブなことを冗談とシャレにならない。それは周囲もそうだろうし、何より私自身の精神を保つことができなくなる)。

これは決して己を偽って生きているわけではない。

陽気として生きる私

私は平生、ポジティブで陽気で根アカである。

反面、嫌なことがあったりストレスを受けたりした時に即死する。

私は「ちょっと辛いけど、大丈夫」という状況がない。「平和で幸せ」か「限界」かのどちらかである。

あるいは、私にとって「平和で幸せ」というのは「ちょっと辛いけど、大丈夫」な状況のことだ。経験や慣れによって、「ちょっと辛い」状態を「幸せ」だと認識できるようになった。

だって、まだ限界でないのだから。

陽気に生きようとする私たち

これは何も、私に限った話ではない。

私たちは、貧弱なコアを守るために幾重にも処世術を纏っている。それは「対−世界」としての書籍術だけではない。「対−自己」としての処世術も然りである。

私たちは泣き言を言わない。私たちは「言ってもしょうがないこと」を嘆かない。私たちは人のせいにしない。そして自分を貶めもしない。だから私たちは、陽気に振る舞う。

「自分と折り合いをつけて生きていこう」と、したり顔な人たちがいう。私たちはまだ、自分と折り合いをつけられていないのだと。「ポジティブになろう」と、したり顔な人たちがいう。私たちはネガティブなのだと。

とんでもない。

私たちは完璧に折り合いをつけている。

根っからのポジティブである。

もし私たちが今よりほんのわずかでも自分と折り合いをつけられていなければ、きっともうこの世にはいないだろう。もし私たちが今よりほんのわずかでもネガティブだったら、私たちは愛想笑いの一つも浮かべられないだろう。

私たちは、時々思う。

「こんなにも世界は素晴らしく、人々は優しく、運に恵まれ、社会は私を受け入れてくれる」「すべてが良いことずくめだ」「では、私の抱える『この想い』はなんなのか」「『この想い』は何が原因なのか」「『この想い』は誰のせいなのか」

私たちは賢い。

健全な理性を携えている。

「『この想い』の原因を一つずつ検討してみた」「そして世界のあらゆる対象を検証し終えた」「その結果、『最後の一つ』を除いて、なんら私に『この想い』を抱かせる要因はなかった」

しばしば、私たちの悲観は、歪曲した認識のせいだと指摘される。しかしその実、私たちは他の誰よりも慎重に世界を検討するのである。己の頭に悲観的な念が浮かぶと、すぐにそれを取り出して「認知の歪み」が生じていないかを確認する。認知の歪みが認められれば、その念を棄却する。

ついには私たちの頭からは、あらゆる悲観的な念が取り除かれる。

そしてただ一つ、「いまだ言語化していない『あの想い』」だけが残る。私のうちに生じた悲観的な念から、丹念に不純物を取り除き、およそ言葉にできるものを拭った先に残る。反論し尽くしたはずなのに、矯正し尽くしたはずなのに、いまだに残る核。

私たちは健全な理性の果てに絶望を獲得する。

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